茂庭綱元 伊達武将隊

発行者: 22.08.2021

粟野秀用 (?~) 木工頭。喜左衛門。二色根城主(南陽市)。伊達小次郎の傅役であったが、小次郎が兄政宗に斬られたため、伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。武功により取立てられ、伊予松前十五万石の大名にまでなるが、秀次事件に連座して年自害した。このつながりで政宗も秀次一味と見られ、秀吉への弁明に奔走することになった。粟野氏は南陽市川樋、岩部山などに居館を持ち、南陽市付近で勢力があったらしい。また、かつて二色根には伊達家4代目伊達政依(粟野蔵人)開基とされる観音寺があった。伊達家3代目伊達義広は「粟野次郎」を名乗っており、『米沢事跡考』によると粟野氏は伊達義広の後胤にあたるらしい。. 伊達家15代目。伊達稙宗の嫡男。左京大夫。伊達氏の実力を背景に代々大崎氏が継承してきた奥州探題職を得た。天文の乱で父、稙宗と争い、家督相続後は本拠地を米沢城(米沢市)に移す(年)。有力家臣と妥協し、父の稙宗の政治路線を改め、知行判物を再交付した。伊具郡をめぐって相馬盛胤(顕胤の子)と抗争を続けた。一方で宿老中野宗時を重用し、宗時の専横を許した。次男の輝宗とも対立したが、年に輝宗に家督を譲り、杉ノ目城 (福島市)に移って隠居した。晴宗も父同様に多くの子ども達を政略結婚や養嗣子に利用し、勢力拡大を図った。晴宗の妻久保姫は岩城重隆の娘で、白河結城氏に嫁ぐところを晴宗が拉致して妻にしたという。晴宗との間に十一人の子女をもうけたという。.

留守政景 (~) 伊達晴宗の三男。上野介。留守氏の養子となる。留守氏は陸奥国留守職の家柄で高森(岩切)城(仙台市)を居城とし、伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、伊達家の傀儡であった。政景はは留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により年養子に迎えられた。年黒川晴氏の娘を妻に迎える。年政景の入嗣に反対する村岡氏を滅ぼした。その後利府城(利府町)に移った。年兄輝宗に従い最上義光を攻め、年対相馬戦のために小斎に出陣した。年人取橋の戦いで奮戦した。年大崎義隆攻めの総大将として中新田城(中新田町)などを攻めるが、大崎家とつながりのある舅黒川晴氏の裏切りもあり大敗した。しかし黒川の厚意で窮地を脱したこともあり、黒川の助命嘆願をしてこれを救っている。年伊達家移封に伴い黄海(藤沢町)に移住した。年朝鮮出兵に出陣し、帰還の途中で伊達姓を拝領する。年関ヶ原の戦いでは最上義光への援軍を率い、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。年一関城(一関市)に移った。.

伊達成実 (~) 伊達実元の子。安房守。兵部。藤五郎。母は伊達晴宗の娘であり、伊達輝宗の従兄弟にして甥。伊達政宗より一つ年下で、幼い頃から側に仕えていたともいう。年家督を相続し、大森城主(福島市)。同年、伊達輝宗が畠山義継に拉致される事件が起こり、輝宗は義継もろとも伊達軍に銃撃され、非業の死を遂げたとされるが、一説では政宗は不在で銃撃を命じたのは成実だったともいう。続く人取橋の戦いでは佐竹を中心とする連合軍相手に勇戦し翌年二本松城(二本松市)が開城すると二本松城主となる。年郡山の戦いでも活躍。年摺上原の戦いでは第三陣を勤め、芦名軍に斬り込む活躍を見せた。年葛西・大崎一揆鎮圧の際は蒲生氏郷の疑念を解くため人質として名生城(古川市)に赴いた。年政宗の岩出山移封により角田城主(角田市)となる。ところが朝鮮出兵から一時帰国して、伏見にいた成実は年高野山に密かに脱出してしまう。自分の戦功が認められず他の将より位が下であったのが理由とされる。留守政景が説得したが聞き入れず、政宗の命により屋代景頼が角田城を攻撃し、成実の妻子や家臣は討取られた。しばらく浪人の身で、年関ヶ原の戦いを控え、上杉景勝が五万石で迎えようとしたが断った。同年7月関ヶ原の戦いの直前、片倉景綱、留守政景、石川昭光の説得により伊達家に帰参した。年亘理城主(亘理町)となる。年大坂の陣にも出陣した。年江戸で将軍家光に拝謁し、奥州の軍議を談じて家光は成実の勇略に嘆称したという。成実は『成実記』(『政宗記』『伊達日記』)を著し、政宗の一代記を後世に伝えている。成実は「英毅大略あり武勇無双」と評された武勇の士であり、片倉景綱、茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称せられた。またその兜には「決して後戻りしない」とあらわすため毛虫の前立がついていた。.

鬼庭良直 (~) 周防守。左月入道。鬼庭家は茂庭(福島市)と置賜郡永井(長井)荘の一部を領した。置賜郡永井荘川井(米沢市)に居館を構えた。伊達輝宗に重用され、評定役を務め、国分盛重の国分家入嗣のため画策した。年人取橋の戦いでは金色の采配を賜って総軍を指揮した。良直はしんがりとして奮戦し、の首を挙げたが、老齢のため甲冑を着けず黄色の帽子をかぶって戦ったため、敵の目標となり岩城家臣窪田十郎に討ち取られた。しかしこの活躍で政宗は難を逃れることができた。.

としてかわらぬ重用を受け、自らと共に 伊達 三傑に数えられた 片倉景綱 を初めとした 米沢 時代を知る 伊達 ジェームズ・マクラウド 誕生日 臣が没する中、最後まで 伊達政宗 に仕えてその死を看取り、 伊達政宗 の 人生 の最初から最後までを見届けた 唯 一の存在となった。政宗の死去から4年後の同日、鬼庭綱元は没した。. 父 の 仇 である自分を 斬 らず、恨んでもいないとも告げられた 窪田 十郎は、鬼庭綱元に感 服 し 家 臣となった。. 上郡山景為 (?~?) 右近丞。小国城主(小国町)。伊達家移封により、玉造郡宮沢城に移った。. 伊達小次郎 (?~) 伊達輝宗次男。幼名竺丸。政道と名乗ったらしい。政宗に比べ、母に愛されたという。芦名氏の養子候補となったが芦名氏は佐竹氏から義広を養子として迎えたため、伊達と芦名の仲は険悪になった。年政宗が毒を盛られた際、政宗によって斬られた。家中の小次郎擁立派が小田原参陣をめぐって窮地に陥った政宗に代えて小次郎を当主にせんと企んだからという。この一件で母義姫(保春院)は実家最上家に戻り、養育役の小原定綱は殉死した。.

新田景綱 (?~?) 遠江守。景綱の息子義直は中野宗時の孫娘を妻にしていたが、年中野宗時の謀反に加担し、それを知った父、景綱は遠藤基信らと主君輝宗に訴え、息子義直を館山城(米沢市)に滅ぼし、中野宗時らの追討軍を率いて小松城(川西町)を攻め落とした。別の息子義綱は年後藤信康とともに桧原城(北塩原村)に在番した。.

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  • 天正18年( 年 )、 奥州仕置 にともなう知行再編により 柴田郡 沼辺城主となる。同年に発生した 葛西大崎一揆 を政宗が煽動していたことが露見すると、 豊臣秀吉 への弁明のために 京 に派遣され、以後秀吉との折衝役を務めることになる。. 片倉重長 (~) 片倉景綱の子。小十郎。生まれた時、父景綱はまだ子が無い主君の政宗を慮って幼い重長を殺そうとしたという。重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川金吾秀秋に追い掛け回されたという。一方、勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。年白石城攻めに父とともに参加。年大坂夏の陣では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し、討ち取った。続いて真田幸村と対決した。重長の勇将ぶりを見込んだ幸村は娘阿梅を重長に託し、重長は阿梅を妻とした。こうして真田家の血は片倉家に受け継がれた。.
  • 政宗の四回忌にあたる寛永17年( 年 )5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石とした。隠居領は三男の実元が相続した(着坐・文字茂庭氏)。.

2021年8月1日~31日の出陣予定(8/22現在)

愛姫 (~) 田村清顕の娘。母は相馬氏。陽徳院。愛姫は「めごひめ」と読む。年伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという。年秀吉の人質として京都に住まう。年五郎八姫(いろはひめ)を産み、年忠宗(第二代仙台藩主)を産む。政宗が亡くなる時、看病したいと強く願ったが許されなかった。このため自分が亡くなるときは夫政宗の命日まで頑張り、夫の命日に死去したという。また政宗は隻眼にコンプレックスを持ち、全ての肖像に両目を入れさせたが、愛姫は夫の正しい姿を残しなさいと言い、政宗の片目の木像を造らせたという。眉目秀麗であったという。.

鬼庭良直 (~) 周防守。左月入道。鬼庭家は茂庭(福島市)と置賜郡永井(長井)荘の一部を領した。置賜郡永井荘川井(米沢市)に居館を構えた。伊達輝宗に重用され、評定役を務め、国分盛重の国分家入嗣のため画策した。年人取橋の戦いでは金色の采配を賜って総軍を指揮した。良直はしんがりとして奮戦し、の首を挙げたが、老齢のため甲冑を着けず黄色の帽子をかぶって戦ったため、敵の目標となり岩城家臣窪田十郎に討ち取られた。しかしこの活躍で政宗は難を逃れることができた。. 支倉常長 (~) 山口常成の子で現在の米沢市関の地に生まれたという。支倉忠正の養子。与市。六右衛門。支倉氏は柴田郡支倉(川崎町)を領有した。政宗の命により、宣教師ソテロとともに月ノ浦(石巻市)から出航し、メキシコ、スペイン、ローマを訪れる。スペインでは洗礼を受け、ローマではローマ教皇に謁見した。だが目的の通商締結は不成功に終わり、マニラを経由して年日本に帰った。しかし帰国した頃は既にキリシタン弾圧に乗り出しており、常長が活躍することは無かった。. リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 このページを引用 ウィキデータ項目.

留守政景 (~) 伊達晴宗の三男。上野介。留守氏の養子となる。留守氏は陸奥国留守職の家柄で高森(岩切)城(仙台市)を居城とし、伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、伊達家の傀儡であった。政景はは留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により年養子に迎えられた。年黒川晴氏の娘を妻に迎える。年政景の入嗣に反対する村岡氏を滅ぼした。その後利府城(利府町)に移った。年兄輝宗に従い最上義光を攻め、年対相馬戦のために小斎に出陣した。年人取橋の戦いで奮戦した。年大崎義隆攻めの総大将として中新田城(中新田町)などを攻めるが、大崎家とつながりのある舅黒川晴氏の裏切りもあり大敗した。しかし黒川の厚意で窮地を脱したこともあり、黒川の助命嘆願をしてこれを救っている。年伊達家移封に伴い黄海(藤沢町)に移住した。年朝鮮出兵に出陣し、帰還の途中で伊達姓を拝領する。年関ヶ原の戦いでは最上義光への援軍を率い、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。年一関城(一関市)に移った。.

伊達小次郎 (?~) 伊達輝宗次男。幼名竺丸。政道と名乗ったらしい。政宗に比べ、母に愛されたという。芦名氏の養子候補となったが芦名氏は佐竹氏から義広を養子として迎えたため、伊達と芦名の仲は険悪になった。年政宗が毒を盛られた際、政宗によって斬られた。家中の小次郎擁立派が小田原参陣をめぐって窮地に陥った政宗に代えて小次郎を当主にせんと企んだからという。この一件で母義姫(保春院)は実家最上家に戻り、養育役の小原定綱は殉死した。. 喜多 (?~?) 鬼庭良直の娘。母は本沢刑部の娘。鬼庭綱元の異母姉。片倉景綱の異父姉。少納言。伊達政宗の乳母を勤めたという。.

東京2020パラリンピック

父: 鬼庭良直 、母:牧野刑部の娘. 洞泉院( 宮城県 栗原市 ). 鬼庭綱元に捕らえられた 窪田 十郎は、 鬼庭良直 を討った身として死を覚悟していたが、鬼庭綱元は、. 天正18年( 年 )、 奥州仕置 にともなう知行再編により 柴田郡 沼辺城主となる。同年に発生した 葛西大崎一揆 を政宗が煽動していたことが露見すると、 豊臣秀吉 への弁明のために 京 に派遣され、以後秀吉との折衝役を務めることになる。.

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小梁川盛宗 (~) 小梁川親宗の子。泥蟠斎。高畠城主(高畠町)。小梁川氏は伊達家11代伊達持宗の三男盛宗に始まり、2代親朝は年伊達稙宗に従い、最上氏を長谷堂(山形市)に破り、長谷堂城を守備した。3代親宗は天文の乱で晴宗方について高畠城主となる。中野宗時と共に北条氏康への使いもしている。4代盛宗は年中野宗時らが伊達輝宗に背き、討伐を受け相馬に逃れた際、むざむざ高畠城下を通過させてしまったため輝宗に叱責された。年最上家での義守・義光の父子争いに際し、輝宗の命で最上家臣里見民部の守る上山城(上山市)を攻め、細谷で最上軍と戦った際は先鋒も務めた。年刈松田で大内定綱と戦う。後に出家して泥蟠斎を称す。政宗に近侍し、種々献策しており、勇武に秀でた謀臣だったという。.

久保姫 (~) 岩城重隆の娘。栽松院。幼少から色白で美しくえくぼがあったので「笑窪御前」と呼ばれたという。白河結城家に嫁入りが決まっていたが、嫁入りの途中に伊達晴宗が久保姫一行を略奪して自分の妻にしてしまったという。晴宗との間に岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗、二階堂盛義室、伊達実元室、芦名盛隆室、小梁川盛宗室、佐竹義重室と六男五女をもうけ、奥羽諸大名にその血を伝えた。晩年は孫の伊達政宗の庇護下にあり宮城郡根白石で没した。. その後、 伊達政宗 の元に戻った鬼庭綱元は、 伊達政宗 より. 桑折宗長 (~) 桑折貞長の子。点了斎。宗長は最初、出家して覚阿弥と称し、相模国藤沢遊行寺にいたが、本来の跡継ぎが早く亡くなったため還俗して貞長の跡を継いだ。年相馬氏との戦いに臨み、起請文を出し、年人取橋の戦いで活躍。年郡山の役では軍奉行。年摺上原の戦いでも子の政長と出陣した。政長は朝鮮出兵で病死したため、石母田景頼が桑折家を継いだ。宗長は伊達政宗の評定衆でしばしば談合に加わった。.

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  • 大有康甫 (~) 伊達稙宗の十三男。一風軒。東昌寺(東正寺)十四世住職。6歳で出家し、伊達家の外交官として活躍。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の教育係に推挙した。年仙台北山に東昌寺を移した。南陽市赤湯にある東正寺はかつて東昌寺と称し、『赤湯温泉誌』では慈覚大師の草庵があった所に伊達家が押領した際、伊達家4代目の伊達政依(粟野蔵人)が跡地に精舎を建て、東昌寺と号したと伝える。ほかに年道叟道愛開山説と年長井氏を滅ぼし、9代伊達政宗が高畠城に入ってから元中年間に建立した説がある。仙台の東昌寺に伝わる説では年伊達政依が建立し、陸奥安国寺となり、年伊達氏の置賜郡攻略とともに夏刈(高畠町)に移り、大有康甫の時に仙台に移したとされる。しかし夏刈には以前から長井氏が開基した大寺院の資福寺があり、虎哉宗乙が資福寺住持になったことで赤湯の東昌寺と由来が混同した可能性もある。また『米沢地名選』によると東昌寺北山腹に「永仁二年(年)伊達式部少輔」の古碑があるとして、米沢に館を置く長井氏を滅ぼす以前から伊達氏は赤湯近辺を支配していたとも考えられる。赤湯に隣接する二色根に3代伊達義広の後胤という粟野氏が居城を置き、やはり伊達政依が建立したという観音寺(明治に廃寺)があったことと併せて考えると、東昌寺も長井氏滅亡以前から赤湯近辺を押領した伊達氏よって移されたか、最初から当地に建立された可能性がある。また伊達政依が建てた東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と呼ばれ、のち観音寺と興福寺は長井氏が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になったという。.
  • 愛姫 (~) 田村清顕の娘。母は相馬氏。陽徳院。愛姫は「めごひめ」と読む。年伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという。年秀吉の人質として京都に住まう。年五郎八姫(いろはひめ)を産み、年忠宗(第二代仙台藩主)を産む。政宗が亡くなる時、看病したいと強く願ったが許されなかった。このため自分が亡くなるときは夫政宗の命日まで頑張り、夫の命日に死去したという。また政宗は隻眼にコンプレックスを持ち、全ての肖像に両目を入れさせたが、愛姫は夫の正しい姿を残しなさいと言い、政宗の片目の木像を造らせたという。眉目秀麗であったという。.
  • 慶長9年( 年 )、政宗の五男・ 宗綱 (卯松丸)が栗原郡 岩ヶ崎城 主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場(茂庭町)が置かれた。慶長19年( 年 )の 大坂冬の陣 では政宗の長男・ 秀宗 の陣に属し、翌慶長20年( 年 )2月、秀宗に 伊予国 宇和島10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島に赴いて 宇和島藩 の統治機構の立ち上げにたずさわり、同年4月の 大坂夏の陣 には 宇和島城 から出陣した。.

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2021年8月1日~31日の出陣予定(8/22現在)

伊達晴宗 (~)[号:保山] 伊達家15代目。伊達稙宗の嫡男。左京大夫。伊達氏の実力を背景に代々大崎氏が継承してきた奥州探題職を得た。天文の乱で父、稙宗と争い、家督相続後は本拠地を米沢城(米沢市)に移す(年)。有力家臣と妥協し、父の稙宗の政治路線を改め、知行判物を再交付した。伊具郡をめぐって相馬盛胤(顕胤の子)と抗争を続けた。一方で宿老中野宗時を重用し、宗時の専横を許した。次男の輝宗とも対立したが、年に輝宗に家督を譲り、杉ノ目城 (福島市)に移って隠居した。晴宗も父同様に多くの子ども達を政略結婚や養嗣子に利用し、勢力拡大を図った。晴宗の妻久保姫は岩城重隆の娘で、白河結城氏に嫁ぐところを晴宗が拉致して妻にしたという。晴宗との間に十一人の子女をもうけたという。.

喜多 (?~?) 鬼庭良直の娘。母は本沢刑部の娘。鬼庭綱元の異母姉。片倉景綱の異父姉。少納言。伊達政宗の乳母を勤めたという。. 新田景綱 の娘. 大有康甫 (~) 伊達稙宗の十三男。一風軒。東昌寺(東正寺)十四世住職。6歳で出家し、伊達家の外交官として活躍。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の教育係に推挙した。年仙台北山に東昌寺を移した。南陽市赤湯にある東正寺はかつて東昌寺と称し、『赤湯温泉誌』では慈覚大師の草庵があった所に伊達家が押領した際、伊達家4代目の伊達政依(粟野蔵人)が跡地に精舎を建て、東昌寺と号したと伝える。ほかに年道叟道愛開山説と年長井氏を滅ぼし、9代伊達政宗が高畠城に入ってから元中年間に建立した説がある。仙台の東昌寺に伝わる説では年伊達政依が建立し、陸奥安国寺となり、年伊達氏の置賜郡攻略とともに夏刈(高畠町)に移り、大有康甫の時に仙台に移したとされる。しかし夏刈には以前から長井氏が開基した大寺院の資福寺があり、虎哉宗乙が資福寺住持になったことで赤湯の東昌寺と由来が混同した可能性もある。また『米沢地名選』によると東昌寺北山腹に「永仁二年(年)伊達式部少輔」の古碑があるとして、米沢に館を置く長井氏を滅ぼす以前から伊達氏は赤湯近辺を支配していたとも考えられる。赤湯に隣接する二色根に3代伊達義広の後胤という粟野氏が居城を置き、やはり伊達政依が建立したという観音寺(明治に廃寺)があったことと併せて考えると、東昌寺も長井氏滅亡以前から赤湯近辺を押領した伊達氏よって移されたか、最初から当地に建立された可能性がある。また伊達政依が建てた東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と呼ばれ、のち観音寺と興福寺は長井氏が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になったという。.